かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

夢を見た。

 

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

  • 作者:頭木 弘樹
  • 発売日: 2020/08/03
  • メディア: 単行本
 

このところ “絶望名人”でお馴染みの頭木さんの本を読んでいる。

アンソロジーや名言集ではなく、潰瘍性大腸炎を患った頭木さんご自身の体験をもとに書かれている本だと聞いていたから、難病への理解を促すような闘病記なのだろうと思っていたのだが、そういう側面を持ちつつもそれに止まらず、「食べること」と「出すこと」というとても個人的なことが、他者や社会とどうつながっているかとか、「相手の立場を思いやる」だけでなく「自分の想像が及ばないこともある」とことを自覚する必要があるのだということなど、いろいろと考えさせられるすごい本で、行きつ戻りつしながら、あれこれと考えていたら夢を見た。

 

電車の中でバナナを貰う夢だ。

もちろん、誘因はわかっている。

この本の中にでてきた山田太一氏の『車中のバナナ』というエッセイだ。

 

とある電車のボックス席に偶然乗り合わせた四人。人の良さそうな中年の男性がみんなに話しかけ、和気藹々と会話がはじまったところで、その男性が鞄の中からバナナを取り出して皆に配る。娘さんも老人も受け取ったが、彼ひとり「欲しくないから」と断ると……。

 

私は最初、このくだりを自分ならどうするかと思いつつも「ふむ。」と読み流した。

見ず知らずの人から食べ物を貰うのには抵抗があるが、バナナなら異物混入の危険もなさそうだし…、一度遠慮して二度言われたら、とりあえず貰っておくかななど…と。

けれども、その後に続いた頭木さんがこのエッセイを“絶妙”だと思うわけを読んで、思わず頭を抱えてしまった。

その発想はなかった。全然無かった。

 

でも、まてよ……ともう一度じっくり考えてみると。

 

もしこれが、海外旅行先の出来事だったなら、あるいは電車の中ではなく、なにかの会合でのことだったなら、あるいはまたある程度見知った仲間内の中の出来事だったなら……。

よかれと思ってお菓子を配るとか、「もっと空気をよめよ」と心の中で他人に毒づくとか、事なかれ主義で無難にやりすごすとか……

私は自分が「バナナを配る中年のおじさん」役も「説教をはじめる老人」役も、「だまって無難にやりすごす」娘さん役も、そして「いらない」ときっぱる断る山田氏役も、さして深い考えなしに、場面によってどの役もこなしてしまっていそうな気がしたのだ。

 

自分という人間の、その無神経さが、何だか無性に怖くなって……夢を見た。

 

夢の中のバナナはなんだかとても鮮やかな色だった。

 

『夏物語』

 

夏物語 (文春e-book)

夏物語 (文春e-book)

 

 きっかけは先頃読んだ『サブリナとコリーナ』の著者カリ・ファハルド-アンスタインさんと川上さんの対談記事だった。

(ほう、川上作品は英語圏でも結構、読まれているんだなあ~)と思ったら、既にイタリア語にもドイツ語にも翻訳されて、それぞれの語圏で版を重ね、高く評価されているらしい。

川上未映子さんというと、以前、本が好き!でもちょっとしたブームになった『すべて真夜中の恋人たち』の作者であるということと、大きな反響を呼んだ早稲田文学増刊『女性号』を責任編集した人というぐらいしか知らなかったから、どんな作品なのかと気になって読んでみた。


東京でひとり暮らしをしている夏子の元に、大阪から姉と姪が連れ立ってやってきた。
9つ上の姉の巻子は39歳で、ホステスをしながら、緑子というもうすぐ12歳になる娘を一人で育てている。

この母娘は冷戦状態にあるらしく、緑子が母親の前で一切口をきかず、言いたいことをノートに書くようになってから、かれこれ半年以上にもなるという。

二泊三日の上京の一番の目的は、どうやら巻子が豊胸手術のカウンセリングを受けることにあるらしい。
読み進めていくうちに、そんなあれこれがテンポの良い大阪弁を交えながら、次第に明らかにされていくのだが、この方言、翻訳家泣かせだったりしないのだろうか。

もう1つ、作中には、小学生の緑子が誰にも見せずにノートに書き綴っている文章がたびたび登場するのだが、翻訳するとなると、こういうところも地の文との書き分けが難しそうだ。

読み始めたきっかけがきっかけだけに、初めのうちはそんなことがやたらと気になっていたのだが、読み進めるうちに、今度は子どもの頃から持っていたコンプレックスとか、最近になってお腹まわりよりも気になりだした背中についた贅肉のこととか、自分の身体のことが気になってきた。

不思議なことに物語の筋を興味深く、先を気にしながら追っている最中でさえ、頭の隅で常に自分のことを考えてしまうのだ。

それは、芥川賞受賞作『乳と卵』をリライトしたという第一部だけでなく、第二部でパートナーのいない夏子が、子どもが欲しいと切実に願い、行動を起こす段になっても変わらなくて、夏子の行く末を気にしつつも、私は私自身の存在しない子どものことなどを、とりとめもなく、とりとめのないようでいて結構真面目にあれこれと考え続けていたのだった。

登場人物の誰にも共感しないし、誰かに特別な好意を持つ事すらないにもかかわらず、私はこの作品が好きで、それもかなり好きで、どこがどうとはっきりいうことが出来ずにもどかしいけれど、なんだかすごいと思っている。
そしてこれもまたなぜだかよくわからないけれど、私はこの作品をものすごく個人的なもののように受け止めていて、誰かとなにかを共有したいとも思わず、ただひたすら、この本を読みながら、自分の身体のこととか性交のこととかあるいは子どものこととか、ものすごく個人的な、誰にも打ち明けたことがないようなあれこれについて考えていた自分を、少し醒めた目で振り返りながら、なんだこの本は、なんだかすごいなあなどと、つぶやいたりしているのだった。

サラエボの鐘

 

イェレナ、いない女 他十三篇

イェレナ、いない女 他十三篇

 

ノーベル文学賞作家アンドリッチの新刊が出る。

短編やエッセイの他、散文詩エクス・ポント(黒海より)」も

収録されているときいて、

昔読んだこの本のことを思い出した。 

サラエボの鐘

サラエボの鐘

 

 もっとも思い出したのは

巻頭に収録されていた「エクス・ポント(黒海より)」のことではなく

表題作「サラエボの鐘--1920年の手紙」のことだった。

 

ボスニアは素晴らしい土地、興趣に富み、

自然も人間も全く尋常ならざる土地です。

ボスニアの地中深く貴重な鉱物が眠っているように、

ボスニア人も疑いなく他の南スラブ地域に住む同胞には滅多に見られぬ

多くの道徳的勝ちを身内に秘めています。

だがしかし、ボスニア人が、少なくとも貴君のような人びとが、

明察しなければならないこと、決して見過ごしてはいけないことがある。

それは、ボスニアは憎悪と恐怖の土地だということです。

 

あるいはそれは私にとって後付けの印象のようなものかもしれないが、

20年ほど前、初めて目にしたあの一文を、

その後何度も思い出す事になるとは

その時は、思いもしなかった。

『第九の波』

 

第九の波 (韓国女性文学シリーズ8)

第九の波 (韓国女性文学シリーズ8)

  • 作者:チェ・ウンミ
  • 発売日: 2020/09/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 初めから厳しい話だとわかってはいた。
なにしろこのタイトル、19世紀ロシアの海洋画家イヴァン・アイヴァゾフスキーの代表作『第九の波』( Девятый вал)から取ったというのだ。
嵐の海へ投げ出された人たちが、難破した船の木片につかまって荒波の中を漂っている場面が描かれたこの絵は、第一の波からはじまって、第二、第三と次第に大きくなり、第九の波で最高潮に達するその試練を乗り越えることができれば光明が差すという、嵐の海についてのジンクスに基づいている。
だからもちろんこの物語も、波乱に富んでいるはずだった。

舞台はかつては石灰の採掘で栄え、今は原発の誘致に揺れているという、韓国東海岸の架空のまち陟州(チョクチュ)。
主人公はこのまちの保健所に赴任してきた薬剤師の女性ソン・イナ。
保健所にはそれまで正規の資格を持った薬剤師がおらず、課題は山積。
訪問服薬指導に出向いて、老人たちの薬箱から、賞味期限切れだったり、認可が取り消されていたりする薬を取り上げて恨み言を言われたり、取り締まりを強化して、地域の薬局からうとまれたりも。

そんなとき、毒物入りのマッコリを飲んだ老人が亡くなる。
遺体のジャンパーポケットには、ソン・イナの名刺が入っていた。
捜査を担当する刑事は、18年前、町有数の企業に勤めていた男が不可解な死を遂げ、妻と娘が町を出てソウルに移り住んだことを知っていた。
亡くなった老人が、結局自殺として処理された18年前の事件の有力な容疑者であったことや、当時高校生だったその娘が、再びこの地に舞い戻ってきていることも。

冒頭からひと癖もふた癖もありそうな人物が次々登場するゾクゾクするようなサスペンスなのだが、炭鉱の町特有のじん肺問題や原発誘致をめぐるあれこれに、労働争議カルト教団の暗躍も加わって、間違いなく社会派の物語でもある。
さらにはイナがソウルを去った原因ともなった別れた恋人ユン・テジンに、イナが働く保健所で兵役に服す代わりに勤務する「公益」として働いているソ・サンファとの関係をからめたラブストーリーでもあって…。

その“ラブ”の部分は、なかなか複雑な事情もあって、読んでいて切なさマックスにもなり、それだけでももう読み応えは十分なのだが、それ以上に私の印象に残ったのは、実話をもとにしているという原発誘致問題に関するあれこれだった。

それはおそらく、物語が福島の原発事故から2年後を舞台としていることや、今、私の住む北の大地が核のゴミ問題で大きく揺れていることと無関係ではないとは思うのだけれど…。


少し調べてみたところ、そもそもこの話の元になっているという、美しい海水浴場と石灰岩の洞窟が有名な韓国のS市で起きたあれこれというのがすさまじいかった。
反対の声が上がっているにもかかわらず、原発誘致賛成派が集めた署名の数がなんと全住民の96.6%に達したというので、その真偽が問題になったのが、福島の原発事故がおきる直前のこと。
その後、推進派の市長のリコールを求める住民投票に必要な署名が集められたのだが……。
そう、この本に描かれている“そんなことってある?”“そこまでやるか?”と思うようなあれこれは、実際に起こったことをベースにしているのだった。

原発をめぐるあれこれだけではない。
じん肺に苦しむ人々、都合の悪いことは皆、下請けに押しつけて、労働者を使い捨てにする大企業、そういった生々しい“記憶”が物語の中に息づいていて、読みながら、人はどこまで身勝手になれるのだろう、ひとりひとりは決して悪い人ではなさそうなのに、どうしてこんなにも他人を踏みつけに出来るのだろうかと、繰り返し問わずにいらない。

せめて愛だけは…。
そう願いはするけれど、愛だってやはり、社会のあれこれと無縁ではいられない。
それでも人生は続いていて、この辛く苦しい大波の後には、一筋の光明が差してくるに違いないと信じて歩いていくしかないのだ。
そう、いつだって。

『メイドの手帖』

 

この本のことは
いつも豊富な話題で楽しませてくれる翻訳家の村井理子(@Riko_Murai)さんと
双葉社 翻訳出版担当(@ftb_honyaku)さんのツイートで知った。

“前オバマ大統領も絶賛!”という謳い文句は正直どうでも良かったが、
現代のメイド生活がどんなものかチラッとのぞき見するくらいのつもりで、
Kindleサンプルを読みはじめたら捕まった。

Kindleのサンプルの量は本によってまちまちで、
中には目次だけしかみせてくれないようなものもあるのだが、
これはもうびっくりするほどの読み応え。
すっかり入れ込んでしまってから、
「この先はお買い上げください」と言われたらポチるしかなかった。

これだけの量を無料で読ませるなんて、
中味に相当自信がないとできないことだと思ったから迷わず購入したのだが、
読了までにはかなり時間がかかった。
それは決して面白くなかったからではなく、
むしろぐいぐいと読ませる筆力でどんどんのめり込んでしまい、
あまりにのめり込みすぎたがために
辛すぎて一気に読むことができなかったのだ。


シングルマザーのステファニーは
わずかながらの公的援助と、
他人の家の清掃をするメイドの仕事をして働いて得た少ない賃金で、
娘のミアとともに雨風しのげる家での暮らしと
ミアのお腹を満たすことができる食事をとらせるために必死だった。

クライアントの家に赴き、
流しに放置された汚れた食器を片付け、乱れたベッドを整えて、
排水口に詰まった陰毛を取り除く。
目にするのは汚物だけではない。
飾られた写真や、使われた形跡のない部屋、洗面台に並べられた薬など
その家で生活している人々の人生の一端をも目撃しながら働いている。
悲しげだったり、イライラしていそうだったり、
どの家もなんらかの問題を抱えていそうだ。
彼女が実際にクライアントと顔を合わせることは滅多にないが、
掃除をしながら彼らについて思い巡らす時間はたっぷりあった。

もっとも、洗面台をごしごしこすりながらも、
子どものことが頭を離れないこともしばしばだった。
仕事に赴くために具合の悪いミアを半ば強引に託児所に預けることも。
なにか困ったことがあるたびに、
ミアの父親に引き渡しを求められるのではとビクビクしてもいた。

どうしようもなく追い詰められてパニックになったときには
仕事場のバスルームに駆け込んで落ち着こうとする。
(愛している。愛している。私はあなたを愛しているから。)と
自分で自分を抱きしめながら。


そんな風に必死になって、少しでも生活を良くしようと
心も身体も酷使して働いても
収入が増えて規定を少しでも上回ると公的援助が削られて
かえって家計が苦しくなったりもする。

読んでいてなによりも辛いのは
彼女よりちょっとばかり幸運な人々からステファニーに向けられる敵意だ。
たとえばスーパーマーケットのレジで、
フードスタンプを使って支払おうとする彼女のカゴの中身を、
他の買い物客が批判的な目で覗き込む。
とある年配の男性は、
まるで自分が個人的に彼女の買い物の代金を支払ったかのように
「気にしなくていいぞ!」と大声で言う。

だが実際のところ
そうした敵意は彼女にだけ向けられているわけではない。
たとえば、
彼女がフードスタンプを利用しているなどとは思いも寄らないらしいクライアントが
スーパーで会ったスタンプ利用者へのいわれのない偏見を口にする。
そのクライアントは
フードスタンプを使うような人たちは
働く気もない有色人種の移民のはずだと思いこんでいて、
目の前にいる白人メイドの生活ぶりなど想像したこともないのだ。
そしてまたフードスタンプを利用するにあたっても、
様々なハードルがあることも知らないのだ。

フードスタンプをめぐるあれこれが、
今、日本で生活保護に向けられている攻撃と重なる。

この本、本当にすごい。
どんな社会啓発本よりもリアルにせまってくる。

私は自分のことを生保をはじめとしたあれこれに
一定の理解がある人間だと認識していて、
偏見が全くないとはいわないが、
偏見を持たないよう努力をしてもいると思っていたが、
この本は、そんな私の中に潜む様々な偏見をもえぐり出す。

結局のところ彼女は作家になって、どん底の生活から這い上がる。
人は彼女のことを幸運な女性と呼ぶだろう。
けれどもその裏にはもちろん、沢山の努力があった。
そしてもちろん世の中には必至に努力を重ねても運に恵まれない人もいる。

あるいはこの瞬間にも誰かが運に見放されて、
DV男から必死の思いで逃げ出して
進学するつもりだった大学を諦め
たったひとりで子どもを育てることになるといった
思いも寄らなかった人生を歩み始めることを
決断せざるをえなくなっているかもしれない。

おそらく他者を思いやる気持ち以上に
私たちに必要なのは想像力だ。

あるいはもしかすると、
その不運は自分や自分の大切な人に
降りかかってくるかもしれないのだと。

『キャラメル色のわたし』

 

 

「州のテストみたいな学校の正式な書類とか、細かく書かなきゃいけないものがあるでしょ。そのなかのひとつに人種を書く欄があるよね。白人か、黒人か、ラテン系か、アジア系か、アメリ先住民族か、インド系か、そのほかか」


すらりと背が高くて肌の色の濃い親友のイマーニは黒人、もう一人の親友、濃いオレンジ色の髪をしたヘザーなら白人と、ためらうことなく書き入れるとおもうけれど、イザベラにとって事情はもうちょっと複雑だった。

パパとママが別れると決めたとき、イザベラはパパにたずねた。
ママと別れるのは、パパが黒人で、ママが白人だから?
その時、パパはきっぱりと否定したけれど…。

それから裁判所から親権を法律で正式に決めた書類がパパとママに届いて、イザベラの家族は4つに分けられた。
ママとパパと子どものイザベラ……でも、3つではなく4つ。
なぜってイザベラはこのとき、自分がふたつに切られてしまったように感じたから。
つまり、ママのイジーと、パパのイザベラに。

その結果、どういうことになったかというと、イザベラは毎週日曜日の午後3時きっかりに、モールにあるアップルストアの前で受渡しをされ、ある週をパパとパパの女友達とその息子と過ごしたら、その翌週は、ママとママのボーイフレンドと過ごすという生活を余儀なくされることになったのだった。

考えてみて欲しい。
毎週月曜日、先週寝ていたとのは別のベッドで目を覚ます生活を!
それがどんなに大変なことなのか、大人たちはちっともわかってくれはしなかった。
裁判所を含め、誰もイザベラがどう思っているか聞こうとしなかったのだ。
それが「共同親権」というものなのだとしたら、いったい誰のためのものなのかと、思わず考え込まずにはいられない。

週毎にパパとママそれぞれの家の生活スタイルに合わせて暮らすのは大変なことではあったし、正直ストレスもたまっていた。
そんなイザベラが、煩わしいことを忘れて夢中になれるのはピアノを弾いているとき。
パパの家ではグランドピアノ、ママの家ではカシオの電子ピアノという違いがありはしたけれど。
いろいろなことがあってもイザベラは、両親と両親の新しいパートナーたちが大好きだったし、なんとか上手くやっていこうと努力もしていた。

めまぐるしく変わる彼女の環境の中で、唯一、変わらない場所であったはずの学校での生活が、人種差別に基づくある事件によって、大きく揺さぶられることになるまでは……。


両親の離婚、人種問題など、子どもであっても避けて通れない、社会の様々な問題に正面から向き合って、容赦なく描き出す。

毎度のことながら“鈴木出版の児童文学 この地球を生きる子どもたち”シリーズは本当に質の高い良書揃い。
子どもたちはもちろん、大人のあなたにもお勧めだ。

『わたしの心のなか』

 

 たとえば家族との会話でも、仕事のやりとりでも
ネットを通じての交流でも、本のレビューを書くという行為においてでさえ、
どんなに言葉を選んでも、どんなに言葉を重ねても
自分の想いを相手に伝えきることができないという現実の前に
途方に暮れることがある。

この物語の素晴らしさをあなたに伝えたいけれど
心の中に沸き上がってくる想いを
うまく言葉に出来ないもどかしさに唇をかむ。


わたしは話すことができない。歩くことができない。自分で食べることができないし、自分でおふろに入ることもできない。それが、すごくいや。


メロディは11歳。
脳性麻痺のため、腕も手も、筋肉が縮まったまま硬くて思いどおりに動かない。
テレビのリモコンはかろうじて押せるし、
車いすにノブがついていれば自分でこぐこともできるが、
スプーンやえんぴつは上手くにぎることができずに落としてしまうし、
きちんと座っていたくてもすぐにたおれてしまう。
彼女の言葉を借りれば“ハンプティ・ダンプティのほうが、
よっぽどしっかりしている”というのだ。

言葉が、わたしのまわりに舞い落ちてくる。
ひらひらひらひらと、まるで雪のように。
どのひとひらもこわれやすく、ちがう形をしていて、
手にふれる前に消えてしまいそう。


メロディの記憶力は抜群で、
その頭の中には、
11歳とは思えないほど、たくさんの言葉と知識がぎっしり詰まっているのだけれど、
話すことができない彼女は
自分の考えも、想いも、意思も周囲に伝えることができずにいた。

やがて彼女は、両親や理解のある人の助けで学校に通うようになり
電動車椅子によって以前より少しだけ自分で移動できるようになり
彼女の障害にあった特殊補助機器の助けをかりて
唯一自由に動かすことができる親指でボタンを押すことで
自分の想いを音声に変換することができるようになる。

それはメロディにとっても周囲にとっても画期的なことだった。
けれども、中には彼女の優れた能力をなかなか認めようとしない者もあったし
メロディの才能に気づきはしても
ありのままの彼女を受け入れてくれる人はとても少なかった。

機械の助けを借りて言葉を発することが出来るようになったメロディには
ようやく伝えることができた想いもあれば
発してはみたものの伝わらなかった想いもあったのだ。

原題は "Out of My Mind"。
金魚鉢から飛び出ていく金魚の絵をあしらった装丁は原書と同じものだという。

喜び、悲しみ、悔しさ、憤り、
メロディの心のなかを語りあげていくとても繊細な物語だ。

メロディの悔しさを思って
思わず唇をかまずにはいられないこともたびたび。
それでも読後感は決して悪くない。

背筋がピンと伸びる。
一つ一つの言葉を大切に紡いでいきたいと改めておもう。
わたしの心のなかに広がったメロディへの想い
この物語への想いが
1人でも多くの人に届くといいと思いながらレビューを書くものの
どれだけ言葉を重ねてみても語り尽くすことはできそうない。

伝えきれないもどかしさを感じながらも
それでもやはり、わたしはレビューを書く。
わたしの心のなかに広がったこの想いが
誰かの心に届くと良いなと思いながら。

           (2018.5.30 本が好き!投稿)