かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『きんいろのしか バングラデシュの昔話』

 

福音館書店70周年お祝い読書会に参加すべく、なにか良い本はないかな…と探していたときに、再会したとても懐かしい本。

初版1968年、子どもの頃に読んだ本だ。

バングラデシュに伝わる昔話の再話で、翻訳は石井桃子さん、絵を担当するのがインドに魅せられた日本画家、秋野不矩さんという今考えるとなんとも贅沢な1冊だ。



むかし、グリスタンとよばれた南の国に、ひとりの王さまがすんでいました。
その王さま、とにかく金がだいすきで、玉座はもちろん、身の回りのものも、なんでもかんでも金づくし。
国中の金をあつめさせ、王さま以外はなんびとも、ひとかけらの金もつかってはならないというおふれまでだすありさま。

ある日、狩りに出かけた王さま一行は、森の中で金色の鹿を出会います。
なんとこの鹿、踊ると足下の砂が金に変わるのです。

王様はこの鹿を生け捕りにしようするのですが、うまくいきませんでした。

王様から3日以内に金色の鹿を捕まえてくるように命じられた牛追いの少年ホセンは、動物たちのすすめで、金色の鹿を捜す旅にでることに。

途中、困っている虎や象を助け、その恩返しに寝床や食べ物を提供してもらい、助言を得ながら、ついに鹿のすみかにたどりつきます。

鹿はホセンの話を聞くと、ホセンを背に乗せて王さまの元へと急ぐのでした。

そこで鹿は、王様の命令通り、踊って踊って次から次へと金の砂を出すのですが……。



欲に取り憑かれた王さまと、不思議な力をもつきんいろのしか、動物たちにいつもやさしく親切なホセン、ホセンに恩返しをする動物たち。

おとぎ話の王道ともいえる展開に美しい絵が彩りを添える傑作絵本。

それにしても「ああ、これで わしも おんがえしができる。」といったぞうが、“ながいはなをのばして、ばななや まんごうのみをたくさん”とってくれるシーン。

今ならわかるよ、マンゴーの実!
首をかしげていた、あのころの私に教えてあげたい!

 

『生まれつき翻訳: 世界文学時代の現代小説』

 

本書はレベッカ・L・ウォルコウィッツの『生まれつき翻訳--世界文学時代の現代小説』(2015)の日本語版だ。
「邦訳」ではなく「日本語版」であることが“味噌”で、その意味はこの本を読んでいくとだんだんと分かっていくようになる。

と、分かったようなことを言ってはみたが、正直なところ、本編と日本語版特別寄稿、さらにはあとがきにかわる監訳者と編集者の対談までなんとか通読はしたものの、難解な部分もあり「読めた」という気はしない。

それでも興味深い指摘がいくつもあって、思わずメモをとらずにはいられなかったし、読みたい本、読み返したい本もどっさり増え、もしかしてあの本やこの作品も「生まれつき」と、いろいろ考え始めたらどんどん面白くなってきて、本を読むのにまた一つ、新たな視点を得ることができた気がしている。

まだまだ未消化な部分もあり書評を書きあげるには至らないが、読書記録としてここにもいくつか書き残しておこうと思う。

まずは「序章」。この段階ではこれ、最後まで読み通せるかな?とかなり不安な心持ちに。
だが1章に入ったら、無性にクッツェーが読みたくなってきた!

J・M・クッツェーは英語の原作よりオランダ語の翻訳版を先に出版してしまったり、原語版と翻訳を区別することにも積極的ではないという。
翻訳され様々な言語で読まれることを前提にして書かれた物語たち。

翻訳のグローバルな拡張と増大するスピードのせいで、多くの小説家が自分たちの作品を原語と結びつけるのがまだ有益なのか、正しいことなのかを問うようになっている。作品が始めから多くの版で存在するとき、テクストに言及することはいかなる意味を持つのか。書物の多言語性は、作品が所属する文学的、政治的文化の理解をどのように変えるのか。これらは美学的な問いであるだけでなく政治的な問いでもある。(p93)

と、ウォルコウィッツ。

つづく2章で中心的に取り上げられるのはカズオ・イシグロ
2001年のインタヴューで彼は私は本当に自問する必要がある。「この一文には実質があるか?これはたんに巧妙なだけではないか?その価値は翻訳を切り抜けられるか?」

イシグロの小説は数多くの異なる点で、生まれつき翻訳(ボーン・トランスレーレッド)の作品として理解できると、ウォルコウィッツ。

「1970年代にロシア作家の人気翻訳者だったデイヴィッド・マガーシャックからとても大きな影響を受けた、と私はよく考えます。私に大きな影響を与えたのは誰かとよく人が聞くとき、デイヴィッド・マガーシャックです、と言うべきだという気がします。というのも、私の散文のリズムは、かつて読んだロシア文学の翻訳にとても似ていると思うからです」(p154)

引用されているカズオ・イシグロの言葉もとても興味深い。

3章で取り上げられるのは、物語のアクションがいくつかの大陸や地域や国家領土を舞台に展開する小説
まあ、これはある意味、なじみがあって分かりやすいかも。

4章で展開される言語の問題。
作家がどの言語で書くかという問題はもちろんあるだろうが、「他言語で書かれたふり」をしたり「翻訳されたふり」をする作品という指摘も興味深い。
ハミッドの『コウモリの見た夢』、これは絶対読まなくては!

そして5章のボーン・トランスレーレッド&ボーン・デジタル
これはまいった。ちょっと思考が追いつかない。
とりあえず、ウェブアート共同ユニット“チャン・ヨンヘ重工業”という名前は覚えておかねば。

ラヒリ、多和田葉子、イシグロを論じた日本語版特別寄稿「知らずに書く」は、ある程度作品を知っているだけに本編よりもわかりやすい。
ラヒリの 『べつの言葉で』ももう一度読み直したい。


英文学が専門の著者が翻訳を通して論じた世界文学論であるため、取り上げられているのは主に英米文学ではあるが、英語一辺倒では無く、むしろ偏りすぎる傾向に疑問を投げかけている点にも好感が持てる。

そういえば先日読んだル・クレジオの 『ビトナ ソウルの空の下で』も、フランス語で書かれた物語だったが、舞台は韓国の首都ソウル、登場人物はすべて韓国人という設定だったし、まず韓国語で、翌年にフランス語版の原書と英訳が同時に刊行されたというから、まさにこれ「生まれつき翻訳」だといえるのではないか。

あるいはまた、今話題のアンドレイ・クルコフウクライナ日記 国民的作家が綴った祖国激動の155日』もロシア語で書かれ、最初にフランス語版とドイツ語版が刊行され、ついで、英語、イタリア語、エストニア語と続き、ポーランド語、リトアニア語、ロシア語、日本語と次々に翻訳されたというのだから、まさに「生まれつき翻訳」の申し子といえるかも。

あれこれと、具体的な作品を思い浮かべてみると、いろいろなことが腑に落ちる気がしてきた。

 

 

 

 

 

『ぼくはただ、物語を書きたかった。』

 

1971年3月、3分の1がぎっしり書き込まれたノートで占められているスーツケースを持って、作家はフランクフルトの空港に降り立った。
もう二度と祖国には戻れないと覚悟して。

本書はシリアからの亡命作家ラフィク・シャミが2017年にドイツで出版した自伝的エッセイの翻訳版だ。

1946年にシリアのダマスカスに生まれ、現在はドイツ在住でドイツ語で執筆する作家は、祖国を後にした理由、大学で化学を学び製薬会社に就職したこと、執筆のために会社を辞めたこと、アラビア語での執筆を断念してドイツ語で書くようになった経緯、アラブ諸国からの圧力、ドイツ人からの嫌がらせ、作品にこめた思い等々、真摯に、とても率直に語りあげる。

コンラッドナボコフなど母語ではない言葉で物語を紡いだ作家の話や、知識人と政治家という職業は両立しうるかといった話、ドイツ文学界に依然として蔓延るオリエント的なものへの根強い偏見などの話も興味深い。

読み始めた当初は、気に入った文章や、気になるあれこれを抜き書きしておこうと思ったのだが、あれもこれもと多すぎて、まるまる一冊写しかねない勢いであえなく断念。

この本のこと、作家とその作品のことをとてもよくあらわしているように思われる2つの文章を紹介するにとどめることにする。

「故郷」は場所や人間、言語、イデオロギーに固定されるものではない。「故郷」はぼくたちとともに移動し、目に見えない形でぼくたちの記憶のなかに巣くっている。メルヒェンのように、よいアイデアのように、満たされなかった大恋愛の思い出のように。そして「故郷」はこうした思い出のなかで、ぼくたちが子ども時代から離れれば離れるほど--地理的にも時間的にも--激しく輝き始めるのだ。
 (p69「変容」より)



自由な民主主義のなかで育った人に、独裁政治が亡命者や追放された人々にどれほどの痛みを与えたか、説明することは難しい。自分の国に戻るのを許されないことが、どれほど人間の尊厳を傷つけるか。しかし、小説は読者に、そのことをわからせることができる。読者の反応が、くりかえしぼくにそのことを示してくれた。
 (P154「ダマスカスを賛美する」)



一つ一つの文章は短く、難しい言い回しもないが、とても読み応えがあって、あれこれ考えずにはいられない、素晴らしいエッセイ集だった。
そして、この本を読んでいたら無性に、以前読んだ『愛の裏側は闇』をじっくり読み返したくなってきた。

 

 

 

 

『ぼくたちに翼があったころ』

 

アンジェイ・ワイダ監督の『コルチャック先生』(原題:Korczak)を観たことはあるだろうか?
あるいは戯曲『コルチャックと子どもたち』の舞台を?

もしいずれも観たことがなかったとしても、コルチャック先生の名前なら、どこかで耳にしたことがあるのでは?

ヤヌシュ・コルチャック(Janusz Korczak)は、ユダヤポーランド人。

小児科医で児童文学作家で教育者であり、ユダヤ人の孤児たちのための孤児院の院長をつとめ、著作と実践の両面から、子どもの権利を全面に打ち出した児童教育に取り組んだ人物。

自らは助かるチャンスがあったにもかかわらず、200名もの子どもたちと共に、トレブリンカ収容所に向かった人。

このヘブライ語で書かれたYA小説、副題に「コルチャック先生と107人の子どもたち」とあったので、この本にはきっとそういういきさつが書いてあるのだろうと思っていた。

ところが、ところがである。


足の速さだけは誰にも負けない自信があったヤネクは、貧しいながらも姉と二人、肩を寄せ合ってくらしてきたが、とうとう「かけこみ所」と呼ばれる孤児院に入所することに。

ところがそこでの虐待が原因で、足の骨を折り、さらにはそれを悪化させて、足を引きずるようになってしまう。

なんとかそこを抜け出して家に帰り着くも、結局はまた別の孤児院へ。

ヤネクはそこに入りたくなくて、足を痛めつけられたのは、盗みの現場を押さえられたからだとぶちまける。
「孤児たちの家」と呼ばれるその孤児院の院長の顔は、見る見るうちに赤くなり、「そういう連中は、牢獄に入れるべきだ!」と叫んだのだった。

なぜ?なぜ、子どもたちの体と心をそこなうことばかりしている連中が、子ども相手の仕事をしているのか!?

あっけにとられるヤネクと姉さんを前に、院長先生は彼らのやっていることは、犯罪だ!体罰を支持した者は、盗みをはたらく大人や子どもたちよりも、ずっと卑怯だと憤る。

それが物語の語り手である「ぼく」ことヤネクと、コルチャック先生との初めての出会いだった。

新人の世話係、もめ事を裁くこどもたちの法廷、発行される家の新聞、子どもたち自身によって運営されている「家」での生活が、好奇心旺盛で納得いくまで知りたがる新入りヤネクの目を通して、いきいきと描かれる。
そこにはハラハラもどきどきも、楽しみも悲しみもせつなさも幸せもたっぷり。

世間でよく知られているその最期ではなく、「孤児たちの家」でのかがやくような日々について描きたいと願った作者は、様々な資料にあたるだけでなく、存命中のかつての「家」の子どもたちにもインタビューをして、物語を書き上げたのだという。

だがしかしもちろんのこと、暖かい「家」も、次第に色濃くなる困難な時代のあれこれとは無縁でいられるはずもなかった。

物語は1939年5月にピリオドを打たれる。
ドイツがポーランドに侵攻するのは、その4ヶ月後だ。

 

『「その他の外国文学」の翻訳者』

 

たとえば、図書館に行ったとしよう。
あなたがまず足を向けるのはどの棚だろうか?

私の場合、まず向かうのは新着コーナー、ここでお目当ての新刊を手に入れた後、おもむろに文学の単行本が並ぶ棚へ。
図書の分類法で言えば、文学は900番台。
たいていの場合は910番台日本文学を素通りして翻訳棚に向かう。
当然のことながら、翻訳棚の中で一番沢山の場所を占めているのは、930番台の英米文学なのだが、ここも素通りしてしまうことが多い。
ドイツ940・フランス950・スペイン960・イタリア970・ロシア980を横目で見ながら、向かうのは990番台のその他の諸文学。
この990番台には結構、掘り出し物が多いのだ。
その「その他の」コーナーをチェックし終えた後に、少し離れたところにある920番台の中国文学・その他の東洋文学コーナーへと向かって、中国SFや韓国文学をチェックするのがルーティーン。

これが自分の本棚となると、いわゆる「その他」の文学の方が英米文学より圧倒的に多くなる。

この本は日本では馴染みの薄い言語による文学を、熱意をもって紹介してきた9人の翻訳者が、その言語との出会いや学習方法、翻訳の工夫、そして文学観を語るインタビュー集だと聞いていたから、「その他の外国文学」の翻訳者さんたちには、日頃から大変お世話になっている私は、半分はご恩返し(?)、一種のご祝儀のような気持ちでこの本を手に取ったのだが……。
いやはやこれは、とんでもなかった。
世界は私が思っているよりまだまだ広く、皆さんの苦労は私の想像を遙かに超えていたのだった。


なにしろ皆さんのご専門は、日本では学ぶ人がとても少ない「マイナー言語」。
そのため学習に必要な教材不足は共通のお悩みのよう。
だからこそ鴨志田聡子さんはイディッシュ語を学ぶためにヘブライ語を学ぶ必要があったのだし、ポルトガル語の木下眞穂さんは1937年に出版された旧字体で書かれた『葡和新辞典』を使いこみ、チェコ語阿部賢一さんは日本語の辞書がないので、チェコ語と親しい間柄にあるドイツ語を頼りにチェコ独、独和の順で調べたり、チェコ語と英語、チェコ語とフランス語の辞書も参照するという。
圧巻はマヤ語の吉田栄人さん。そもそも体系立てられた文法教材がまるでないなかで「自分の勉強のためにしかたなく」動詞活用辞書と文法解説書をスペイン語で執筆してしまったのだというのだから恐れ入る。

これを機にと積読山に眠っていた星泉さん翻訳のチベット文学『雪を待つ』に手を伸ばしたら、冒頭からこれぐぐっと心をわしづかみにされて、続きを読むのが楽しみすぎる。

外国文学が好きで、せっかくなら、翻訳されていなくてほかのひとが読めない、自分だけが原文で読めるような作品と出会えるといいという理由でベンガル語を学び始めたという丹羽京子さんのその好奇心と情熱には圧倒される。

『世界の文学、文学の世界』に収録されていた福冨渉さん訳のタイ文学『トーン』を再読してみると、なんだろうこの切れ味は。タイというと料理ばかりが思い浮かぶ私だが、この道ももう少し探ってみてもいいかもしれない。

ノルウェー語の青木順子さんからも、ポルトガル語の木下眞穂さんからも、間口を広げ、後進を育てるという文脈でスペイン語の翻訳家宇野和美さんのお名前が出ていたのも印象的だ。

それにしても、とんでもない本だった。
またまた読みたい本のリストをぐーんと伸ばしてしまったではないか!

 

 

『私が本からもらったもの 翻訳者の読書論』

 

光文社古典新訳文庫」の創刊編集長の駒井稔氏を聞き手に、8人の翻訳者が本にまつわる数々の思い出を語った「WATERRAS BOOK FES」の「翻訳者×駒井稔による台本のないラジオ」。

面白そうな企画だとは思いつつも、若い頃耳の病気をしたせいか、どうも耳で聞くのが苦手なもので視聴を諦めた企画が、書籍化されるときいて楽しみにしていた。

本書には8つの対談の他に、ロシア文学貝澤哉氏による「最も原始的なタイムマシン、あるいは書物の危険な匂い」とフランス文学の永田千奈氏による「本箱の家」の2つのエッセイも収録されている。

一気に読むのは勿体ないので、毎晩一話ずつ、ゆっくり読み進めることにしたものの、どれもこれも面白くて、気分が高揚してなかなか寝付けないという、思わぬ副作用も。

初っぱなから、ドイツ文学の鈴木芳子氏が、12歳の時に読んだ『アンナ・カレーニナ』のアンナ「愛の種類も心の数だけある」というセリフに、途方もない衝撃を受けたという話に衝撃を受ける!?

ナボコフの 『絶望』などでお世話になってきたロシア文学貝澤哉氏の、ソビエト時代モスクワで闇屋から本を買って警察に捕まった話には思わずニヤリ。
いやもちろん笑い事ではないのだけれど、私がロシア沼に片足を突っ込んだ若い頃には、そんな国、そんな時代が確かにあったのだ。
思えば遠くにきたものだ…という気がする一方で、今のウクライナ情勢を見ていると、当時は意外なほどあっさり崩壊したようにみえたあの大国は、四半世紀以上経た今でもまだ、いろいろな影を落としているのだなあとも。

大好きな 『凧』(ロマンガリ)の翻訳者、フランス文学の永田千奈氏の思い出の本たちには、なんだか妙に郷愁を誘われる!と思ったら、そうか、同年代なんだと妙に納得。

英米文学の木村政則氏は、ミュリエルスパークの 『あなたの自伝、お書きします』の訳者さんだ。
(木村)イギリスの小説って非常に細かいことを書いていて、結局読み終わってみたら何があったかも分からない。非常に日常的な中で何か自分の心にちょっと漣が立つようなことを書いているだけなんですよね。
(駒井)でもそれがすごい長さで、その密度が高い。英国の小説ってそういう意味ではだいぶアメリカと違いますよね。
(木村)そうそう。こんなこというとあれですけど、アメリカ的なものって話が大きくなるじゃないですか。
(駒井)大胆にひろがりますよね。
(木村)そう。そういうところよりも、イギリスの本当に日常的な、些末なことをこまごまと書いていってというのが、読んでいてただただ楽しかったんです。
   (p106)
それまで音楽や映画に惹かれてアメリカの英語に触れてきた木村氏が、イギリス文学に惹かれた理由に思わず、共感ボタンを連打したくなる。

同じく英米文学の土屋京子氏の場合は、高校二年でアメリカに留学されたそう。
1970年代のアメリカの高校生活のようすに思わず目を見張る。

いつもプルーストを通じて大変お世話になっているフランス文学の高遠弘美氏のお話は、これまた毎度のことながら、フランス文学に留まらず、日本の古典や近代文学の話も興味深い。
あの美しい日本語はこういう読書体験に裏打ちされているのだと、改めて感じ入る。

ドイツ文学の酒寄進一氏の話もいつもながらの面白さだが、クラウスゴルドンが自らの半生を書いた作品?さらには19世紀のドイツを舞台にした3部作も!?
ああもう、お願いします。どうかぜひ訳してください!読ませてください!と思わず手を合わせる。

トリは日本古典文学の現代語訳などでも知られる詩人で作家の蜂飼耳氏。
夏目漱石宮澤賢治フラナリー・オコナー、そういう本が積み重なって、こういう詩人は生まれるのか。

はてさて、肝心の皆さんが「本からもらったもの」はというと……。
ネタばらしになるので、ここでは具体的に紹介はしないが、この質問の受け止め方からして、なかなかに個性的で興味深くも。

ところで、鈴木氏、酒寄氏とドイツ文学がご専門のお二人が揃ってあげておられる『牡猫ムルの人生観』。これはやはり読んでおきたい。
ぜひとも光文社古典新訳文庫あたりで、新訳を出してほしいものだ。

この本が、光文社ではなく書肆侃侃房から出たというのもまた興味深いところ。

2022年4月、創業20周年を迎えた書肆侃侃房。
一つの出版社が、年を追うごとに、ぐんぐん大きく広く、より深く成長していく様を読者として実感できるのもまたうれしい。

『あなたの自伝、お書きします』

 

それは20世紀半ば、そう、より正確に言えば1949年のことだった。
フラーは早急に仕事に就く必要に迫られていた。
あちこちの書店にツケがたまっていたのだ。
友人の紹介で見つけた勤め口は“自伝協会”。
主牢者のサー・クウェンティンいわく“文学的性質”を持つ仕事だということだった。
提示された給与額は1936年の水準だったが、
それでもフラーはその仕事に興味を覚え、引き受けることにしたのだった。

会員の回想録執筆を手伝うという名目の元
大仰で退屈な文章を読みやすく手直しするだけでなく
多少なりとも読み応えのあるものにようと勝手な脚色を加えていくうちに
フラーの周囲では
彼女が執筆中の処女小説『ウォレンダー・チェイス』を
なぞるような出来事が次々と起こり始め、
あげくようやく書き上げた小説の原稿が
なにものかに盗まれてしまう事態に?!

失われた原稿を探し求めつつ、
複雑に絡み合う登場人物それぞれの思惑を解きほぐしていくミステリ仕立ての物語は
作中の出来事と作中作、物語と作家の自伝的要素もまた複雑に絡み合って、
虚構と現実の狭間で読者を翻弄する。

読みやすいが複雑で
娯楽的でありながらためになる
不気味な怖さと思わずにやついてしまう面白さを兼ね備えたなんとも奇妙な物語。
ストーリーを楽む合間に、作家が作品を生み出す苦悩も垣間見られて興味深かった。

           (2016年09月12日 本が好き!投稿