ネルヴァルの作品を是非読んでみたいと思ったのは
原民喜の『夢と人生』を読んだ時だった。
あの短い文章の中で原民喜が読んだことがないのだけれどとつぶやく、
ネルヴァルの「夢と人生」を私も読んでみたいと思ったのだが、
入手することができず、
読みたい本のリストに入れたままの状態だった。
そんなわけで、岩波文庫からネルヴァルの本が出ると聞いたとき、
残念ながら「夢と人生」は収録されていないことはわかっていたが、
まずはネルヴァルに触れてみようと購入したのだった。
以来、1年近くかけて、少しずつ、少しずつ読んできた。
なにしろ文庫ながら容易に自立する分厚い本なのだ。
おまけに収録作品も小説・戯曲・翻案・詩と多岐にわたっている。
一気に読んでしまっては
それぞれの印象が薄まってしまいそうな気もして
一つ、また一つと読み進めていった。
収録作品の中でおそらく最も有名なのは「シルヴィ」で
巻末の訳者解説や帯でも
マルセル・プルーストをして『シルヴィ』のなかには、
つねづね私が表現したく思っているいくつかの謎めいた思考法則が、
みごとに表現されている
といわしめたとか
ウンベルト・エーコがこれまでに地上で書かれた最高にうつくしい書物のひとつ
と
評したことなどが紹介されている。
シルヴィは“青年時代に少年時代を思い出したこと
を、
中年の語り手が思い出している”という構造の物語で、
後から思えば恋ともいえないような想いを軸にした追憶と郷愁の物語だ。
冷静に考えれば、
「キミはいったい彼女のなにを見ていたのか」と
膝詰めで問いただしたいような気がしないでもないが、
思い出をたぐりよせれば自分もやはり、
幼い日、若かりし日の恋物語は、
相手のことなどよく知りもせず、
恋に恋をしたのではなかったかと思わず自問自答する。
収録作品のうちで私の一番のお気に入りは『アンジェリック』。
ナポレオン三世の専制政治の下
新聞における連載小説掲載禁止令うけて書かれた「連載記事」だ。
連載小説ではありません。
私が書くのは実在の人物の伝記です。
今丁度、貴重な資料を求めて○×に来ています。
新たな資料が入手できそうなので、××に向かいます。
かの人物を追いかけていたところ
意外な人が浮かび上がってきました。
旅先から編集部に送るという体裁で書かれたレポートが
見事な物語になっている。
訳者の野崎歓氏は、ネルヴァルを卒論で扱って以来、
四十年近く読み続けて少しも飽きないという。
その思いは、巻末に収録された充実した解説はもちろん
豊富な訳註にも反映されていて
読み応えのある1冊になっている。