かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『他者の苦痛へのまなざし』

 

原題は“Regarding the Pain of Others”。
2003年2月にアメリカで出版され、同年7月に早くも日本語翻訳版が出版されたことでも話題になった本だった。
とはいえ私がこの本を最後まで読み通したのは、今回が初めて。

この本が出た当時、確かに一度は手に取ったことがあったと思うのだが、あの頃はまだヴァージニア・ウルフのことも名前だけしか知らず、本書の冒頭で長々と引き合いに出されている 『三ギニー』も読んだことがなかった。
そしてまたなによりもソンタグが、NATOによるセルビア空爆を積極的に支持していることがネックになって、読み進めることができなかったと記憶している。
もちろんそうしたソンタグの姿勢は、当時の世論の中でも特別なものではなく、むしろ圧倒的多数の知識人たちが同じような立場であったわけだけれど。
そしてまた、実際に紛争地域に赴いたことで、セルビア空爆を支持した多くの人々とは一線を画していたのだけれど。

そうしたいわゆる挫折本に、今回改めて手を伸ばしたのは、やはり、日々TVや新聞、SNSなどで目にするウクライナの写真や映像の影響だった。

いつの世においても、戦争の写真が政治的な使命を帯びているという主張に異を唱える人はいないだろう。
敵対する陣営が同じ戦争を写した写真や映像を流したとしても、そのキャプションは全く違っているはず。
戦争の写真を論じる際に政治的態度を保留することはできない。

戦争写真においては撮る人間が事件の現場に居合わせることが大きな意味を持つが、多くの場合、それを眺める者は、安全な場所に身を置いて、遠い土地にいる人々の悲惨や苦しみを目撃し、衝撃をうけ憤る。

だが、戦争が始まったときの衝撃は、日が経つにつれ薄れていく。
人々の恐怖に対する反応が鈍るのは、どの戦争もやめさせることができないように思われるからなのか。

“同情は不安定な感情で、行為に移し替えられない限り、萎れてしまうものだ”とソンタグはいう。

戦地で写し撮られクローズアップされる苦しむ者と、映像によってそれを確認する特権的な視聴者とのつながりは、決して本物ではないし、権力と「われわれ」との真の関係を今一度ぼやかしてしまうものだとも。

同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみをを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。(p101)

だがそれは、善意であったとしても、無責任な反応ではないか。

ある人々の特権が、ほかの人々の貧困を意味しているように、わたしたちの特権が彼らの苦しみに連関しているかもしれない。
そういう洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎないのだとも。


書かれていることすべてを理解したとは到底思えないし、正直に言えば、一部には賛同できないと思う主張もあった。
それでもなお、世界で起きていること、今、目の前で流されている映像を見ながら考えるべきことを、あらためて整理する上で大いに刺激をうけ、参考になった。