かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『アイダホ』

 

周囲には他に住む人もないアイダホの山中に、夫ウエイドと二人で暮らすアン。
彼女は時折、夫に気づかれぬようこっそりと家を抜け出して、少し離れた場所に停めてある古いトラックに乗り込む。

といっても、どこかにでかけるわけではない。
ただ一人になってあれこれと物思いにふけるのだ。

夫と出会った頃のこと、夫の病と日々の生活への不安、思い煩うことはあれこれあるが、もっとも多くの時間を費やすのは、かつてこのトラックに乗っていた、夫とその前妻と二人の娘たちのことだ。

ある夏の日。
一家4人はこのトラックに乗り込んで、薪にする丸太をとりに別の山へと向かった。
だがしかし、戻ってきたのはウエイドただ一人。
その日、前妻のジェニーは下の娘メイを手に掛けて、おそらくはそれを目撃したのであろう上の娘ジューンは失踪した。

母による子殺し。
ジェニーは一切抗弁をせず、罰を受けることだけを望み、終身刑を受ける。

必死の捜索にもかかわらず、長女ジューンの行方はわからなかった。

追い打ちをかけるように、ウエイドは父や祖父と同じ若年性認知症を患い、次第に記憶を失いつつあるのだった。


物語は、事件から9年、アンとウエイドが結婚してから8年後、アンがあれこれと回想する場面から始まる。

日ごとに記憶を失っていく夫と共に暮らすアンと、刑務所の中で生き続けることで罰を受ける前妻ジェニー。
二人の「現在」の合間に、ウエイドとジェニー、ウエイドとアン、それぞれのなれそめ、ウエイドとジェニーの娘たちのエピソード、ウエイドと同じ病を患っていた彼の父親の話などが、語り上げられていく。

まるで霧の中にいるように、ぼんやりと浮かび上がりはするものの、はっきりとしない「事件の真相」が、あの人、この人の記憶の断片をつなぎ合わせていくうちに、明らかになるに違いないと思いつつ、ページをめくる。

だがそこで待ち受けていたものは……。

互いが20代、あるいは30代前半ぐらいならば、設備もなければ経験もない山の中で暮らし始める無謀さも、50過ぎて発症するかもしれない病への不安もものともせずに、夫婦二人だけの生活を始めるほどの情熱も、大いにあり得るだろうと思いはする。
けれども、だんだんと記憶を失いつつ相手に恋をして、そのすべてを引き受けるべく結婚するという選択が果たしてあり得るだろうかと、読者は本から顔を上げてこっそりと、家人の顔を盗み見たりする。

人の心の機微と共に、自然の厳しさと美しさをも静かに語り上げる物語は、2019年度国際ダブリン文学賞を受賞した著者長編デビュー作。

「真相」もさることながら、記憶について、愛について、考えさせられる、一読、二読、三読の価値のある物語だった。