かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『自由論』

 

ミルと聞けば、ベンサムの「功利主義」の流れを汲んだ比較的穏健な功利主義者という、教科書的な位置づけは思い浮かぶものの、実際にどんなことを言った人で、どんなものを書いた人かは知らなかった。
正直にいえば、女性の権利運動の指導者である哲学者のハリエット・テイラーの伴侶だということ以外には、興味もなかった。

にもかかわらず、ミルの『自由論』を読みはじめたのは、またもや “やりなおし世界文学”のせいだった。

読んでみて歯が立たなそうなら途中でポイッと投げだそうと、軽い気持ちで読み始めてすぐに「おやっ?」と思う。

この本の中で論じるのは、いわゆる意思の自由ではない。
市民的な自由、社会的な自由についてであり、逆にいえば、個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい、とミルはいう。

自由と権威の対立は、古くは古代ギリシャやローマからお馴染みの問題ではあるが、かつては政治的支配者の専制から身を守ることを意味していた。
だが世の中が進歩し、国の為政者を選挙で選ぶようになれば、権力を行使する者を支配されている側が定期的に選択できるわけで、支配者に権力を濫用させず、国民には害が及ばないようにすることができると考えられるようになった。
だがそこから「多数派の専制」問題が発生してくる。



 

民衆は、周囲のひとびとと同じ意見のとき、あるいは自分が尊敬しているひとびとと同じ意見のときだけは、自分の意見を絶対に正しいと思ってしまう。自分一人だけでの判断には自信がない分だけ、「世間」一般の意見なら間違いないはずと、絶対的に信頼してしまうのだ。
 しかし、個々の人間にとって世間とは、社会の全体ではなくて、その人が接触する一部分にすぎない。つまりその人が属する党派、宗派、教会、階級を意味するにすぎない。



 いったん世間というものを絶対的に信頼してしまうと、ほかの時代、ほかの国、ほかの宗派、ほかの教会、ほかの階級、ほかの党派には、自分たちと正反対の考え方が昔も今もあると知っても、世間への信頼はゆらぐことがない。違う世間にたいして、自分たちのほうが正しいと言い張り、その責任は自分が属する世間にゆだねる。




本当は、数多くの世間の中で自分がどの世間を信頼するかは、どこで生まれたかどんな環境で育ったかなど、偶然に決まったにすぎないのに…。

さらに時代というものもまた個人と同じくらい間違いを犯す。と、ミルは続ける。

もちろん予想される反論についても述べている。

これはまださわりにしか過ぎないのに、こんな調子で紹介していたら、ものすごい量になってしまいそうなので、このあたりでやめておこう。


ちなみに、古典新訳版恒例の巻末の解説は、仲正昌樹氏によるもので170ページにも及んでいる。

最後に自戒を込めてもう1節。

 人類の良識にとって不幸なことに、人類は間違いを犯すものであるという事実が、理論上ではかならず重視されても、じっさいの場面においてはほとんど軽視される。誰でも自分は間違えることがあると知っているのに、そのことをつねにこころにとめておかねばと考える人はほとんどいない。自分も間違えることがあるとわかっていても、自分にとってかなり確実と思える意見がその一例かもしれぬと疑う人はごく少ない。



世の中のことも、自分自身のことも…と、いろいろ考えさせられる本だった。