かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『五月 その他の短篇』

 

あるところに男がいて、墓場の隣をねぐらにしていた。
 いや待て。ちがうな。なにも男と決まっているわけじゃない。この話にかぎって言えば、女だ。あるところに女がいて、墓場の隣をねぐらにしていた。
 でも正直、今どき誰もこんな言葉は使わない。今はみんな“墓地”と言う。“ねぐら”も死語だ。ということは。


こんな書き出しではじまる巻頭作「普遍的な物語」。

物語というのはすべて“語りなおし”で出来ているのではないかと思い始めていた。
主語を変え、語り手を変え、なにかを足して、なにかを取り除く。
そうすることで、新たに生まれる視点とかなんとか……。

だからこの「普遍的な物語」を読み始めて、“我が意を得たり”という気になったのだ。
まさか、自分があんな風に思いも寄らぬところへ運び去られるとは思ってもみずに。


これは本当にあった話だ。と語るのは、困った客に悩まされる書店員で(「ゴシック」)、キングス・クロス駅で、携帯電話で話ながら歩いていた私が、あやうくぶつかりかけたのは死神だった(「生きるということ」)。

そして表題作「五月」の書き出しはこんな風に始まる。
“あのね。わたし、木に恋をしてしまった。どうしようもなかった。花がいっぱい咲いていて。”

収録されている物語は全部で12篇。
訳者あとがきによれば一篇でひと月ずつを描き、全体で一年をひとめぐりする構成になっているのだとか。
そう言われてみれば、確かに季節は移り変わっていたのだが、とにもかくにも一つ一つの物語が、それぞれに個性的すぎて、一読しただけではそこまでつかめなかったというのが正直ところ。

木に恋したわたしと、木に恋したあなたを見つめるわたし
帰宅途中のわたしと、あなたの帰りを待ちわびるわたし

わたしとあなたが交錯する中で、読み手の私もページの間に溶け込んでいく感じ。

いずれの物語も書き出しからは予測不可能。
思いも寄らぬ方向へと読者を導いたあげく、思いがけないところで放り出す。

理性が理解できないと言っているのに、心が今にも同化してしまいそうな気がするほど、ものすごくよくわかる気がする不思議。

ふと気づく。
そうか、私はいつも、行き着く先を予測しながら物語を読んでいるんだな。
だからこそ「意外」で、だからこそ「驚いて」いるんだ。

先入観を捨てて、物語に身を委ねる、
アリ・スミスの作品はそうやって楽しむべきものなのかも。
いやいやその読者の予想を裏切り続けるところに面白さがあるのだから、大いに予想して、大いに驚けばいいのでは?と、物語の合間合間に自問自答する。

だが読み始めたらもうそこは、墓場だろうが、駅だろうが、恋人との逢瀬だろうが、バイト先だろうが、とにかく引きずり込まれるしかないと覚悟を決めて、存分に溺れて楽しむ。